Sさんのネームリーディングです(省略あり)。
ご本人の掲載許可はいただいています。
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(前略)
人に嫌われるということに対してとても抵抗があるようですが、本当の愛は嫌われることも辞さないぐらいの強さが必要です。
人に嫌われることをしなさいというわけではなく、人に嫌われまいとして自分の本来の力を伏してしまうのはもったいないと思います。
もっと自分に敬意を払い、尊重するようにしましょう。
高貴な大切な人に接するように自分に接してください。
あなたはそれに値する人ですから、その感覚を取り戻したがいいでしょう。
自分の崇高さが蘇ってくると、自然と本当の意味での慈愛もにじみ出てきます。
自分を大切にせずに他者によくしようと思っても本末転倒。それは人に好かれたいがために行なうことであり、人のためのようで自分(が嫌われない)のためです。
自分を低めてしまうと何ごともうまくいきません。
たいていの場合は自己否定、自己卑下することで、誰かに対して(たいていは親)「あなたのせいで」と思っているのですが、あなたの場合は誰かに対してというよりは、キリストが十字架を背負うような感覚で、全人類の罪を背負うみたいな感覚の自己犠牲精神があるようです。
他の人が幸せでないのに私が幸せになってはいけないとか、他の人の幸せのためなら私が犠牲になっても、、みたいな感じなのですが、他の人といってもある個人を指すよりは全般的な感じだと思います。
そういう姿勢を美とみることもできますが、一昔前の耐えることが美徳みたいなのは本人にとって楽しいことではないですから、そうしたいのかは考えてみるべきところです。
あなたは一段高いところからまわりを見渡して、必要なものを分け与えるような、ちょっと女神的なところがあるようです。
一段高いところから、といっても人を見下すという意味ではなく、人よりも高い視点で見ることができるというところでしょう。
だから人々が持っていないなにかを分け与えることができるわけです。
自分も周りの人と同じところに立って、一緒に「たいへんだねー、つらいねー」というところにいってしまうと、共感と「私たち同じね」みたいな安心感、連帯感は得られるかもしれないですが、それは本当にその現状や自分自身や他者に向き合っていることにはなりません。
自分がその人や状況に対してできることは何か?と思う時に、一つ高い視点を持つからこそ、その人たちには見えていない解決法が見えるわけです。
あなたにはそれができる能力があるのですが、それよりも同列で甘んじていたい気持ちが先に出てしまっているようです。
今まではそういう関わり方が多かったかもしれませんが、もうそこから一歩出て新たな立ち位置をもたれるがいいでしょう。
一緒に牢獄の住人になって、そこの人の話を「うん、わかるよ」と聞くのではなく、外に出るにはどうしたらいいか?を彼らが自ら考えていけるように導いていく人であってほしいと思います。
その資質は十分に持っておられると思いますが、その自覚はまだ少ないように思います。
「自分はこんな人」と今思っていることは、過去の自分を指し示して自分の才能や可能性を制限しているものですので、それは偏った見方だと思ってください。
今の自分には思いもよらぬもっと尊大な自分が隠れていますので、それを探してください。
あなたがもっと自分の尊厳を取り戻すことによって救われる人たちがいます。
もちろんあなた自身も救われるでしょう。
自分のために何かしようと思うとなかなかできませんが、人のためや世のためと思って、今の自分からもっと可能性ある自分になろうと思うと案外やりやすかったりします。
どうせ自分を捧げるのであれば、そのような方向に自分を捧げていってほしいです。まわりの人に合わせて同じ次元に留まることに自分を捧げても、その人たちにとってもよくないし、あなたにとっても損なことです。
ただ自我はそこで自分を慰めることができますので、そこに甘んじることにちょっと満足かもしれませんが、それでも本当はそうではないと気づいていると思います。
どこからどのように手をつけていいかわからないようであれば、自己卑下、自己否定をやめましょう。「自分は素晴らしいのだから自分の尊厳を取り戻そう」と日々の生活を送ってください。
自分は誇り高き部族の女神なのだと思って、女神らしくふるまう遊びをしてもいいでしょう。まじめになりすぎるとなかなかできませんが、ごっこや舞台に立っていると思って尊厳ある女神としてふるまってみてください。
そうしてみると女神らしくふるまうことは自分のためではなく、女神を敬ってくれている人々のためだと気づくと思います。
女神らしくふるまうことがおこがましいのではなく、そのようにふるまうことが自分を人々に捧げた状態、自己犠牲の状態です。どうせならそういう方向に自分を捧げるほうがいいと思います。
天皇陛下が個人を捨てて国民のために生きておられるように、マイケル・ジャクソンが個人を捨て、夢を与えるスーパースターとして人々のために生きたように。
あるいは、キリストが人々の救済のために十字架に磔になったように。
大げさな話のようですが、どこに自分を捧げるかという話で、その矛先の向けようでずいぶんと違ってきます。
自己犠牲という言い方をすれば自己犠牲なのですが、崇高な理念と自分の尊厳を保ちながらそうするのと、自己否定的にそうするのとでは全然違います。
あなたが今まで歩んできた人生は何一つ無駄がなく、それらはこれからの糧となるものです。
あなたが勇気ある一歩を踏み出し、崇高な目標に向かって歩み出せば、あなたの人生はぐるんと裏返って全く違う見解が現れてくると思います。
それができるのは他の誰でもない自分自身です。
どうぞちっちゃな自分に留まることなく、自分の可能性を信じて進んでいってください。
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ご本人からの感想です。
↓
数々のご指摘、思い当ることばかりです。
まわりの気の影響を受けやすいこと、自分を弱いと思っていること、自分を低めてしまうことなど。
特に自己否定については、わかっていながらなかなか抜け出せないでいたところです。
“女神”というありがたくももったいない言葉を使っていただきました。
現状とはあまりにもかけ離れたこの言葉は、即座には受け取れなかったものの、
そのままでは自己否定、自己卑下の続きになってしまいます。
女神ごっこのつもりで、自分に良いプレッシャーをかけていければと思います。
“小さな自分にとどまらず、自分を信じて進め。”
昨年末、同じメッセージが自分の内側からも届いていました。
ずっと怖がって、自分で自分を牢獄に閉じ込めていたようです。
もう甘えていてはいけませんね。
まるで台風のような強い風が吹き、明日新月を迎えます。
いつものことながら、最高のタイミングでこのような素晴らしいメッセージをいただくことができ、感謝しています。
今回も本当にありがとうございました。(pnb140416)
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