「命」と「いのち」の違い
これは私が感じることですが、「命」というと個体の寿命、生まれてから死ぬまでの生命という印象があります。
「いのち」というと、個体の生命ではなく、”命の循環” のように感じます。
生命が発生して以来、連綿と受け継がれて進化してきた「いのち」。
一つの命がなくなっても、その命を受け継いだ他の命が違う形でその命をつないでいきます。
森がいい例です。木は一本の木を表しますが、木が三本、つまり「森」になると、一つの集合体、共同体です。その中では、様々な植物と生き物たちが食べつ食べられつ、生態系を形作っています。
豊かな森では多種多様な命が共存します。森はまるでひとつの生命体のようにうまくそれらを循環させ、機能します。そこにあるのは持続可能な循環システムであり、ひとつひとつが全体との関わりの中にあります。
私たちはみな、関わりの中で生きている
現代では人は個別感、分離感が強いですが、必ず関わりの中に存在しています。
両親がいるから自分がいますし、その両親にもまた両親がいます。今着ている服はたくさんの人の手によってもたらされ、今あなたのところにあります。家の中にある様々な品はすべて、他の人々が関わったから存在し、あなたのところにあります。
私たちは他との関わり抜きでは存在できません。地球で生きているということは、地球の自然環境のお世話になっているということです。いろんな関係性のネットワーク、つまり「縁起」の中に私たちは存在しています。
いろんな人がいて、いろんなことを思い、経験し、それらがいろんな出来事を生み出します。同じものを見ていても、人は誰一人として同じことを体験していません。千差万別、みな違う体験をしています。
ずっと受け継がれていく「いのち」と、それによって生じる様々なエネルギーは、まるで織物を織っているかように縦横に組み込まれていきます。それぞれが自分の人生で起こる出来事に対応し、それらが複雑に関係し合うことにより、全体の模様も常にダイナミックに変化していきます。
大きないのちの中の小さないのち
「いのちおり」とはまさにそのダイナミックないのちのやりとりを表す言葉。
「命を織る」=「いのち」。
個体の命で織り込まれる人生模様は、そのまま全体の生命の流れに影響します。
受け継がれながら進化成長していく「いのち」の流れはどこに向かっていくのやら。
ひとりひとりが作り出す思いや経験によっていろんな模様が織られていきます。
膨大な情報ネットワークの中で、どんな”織り模様”を見せてくれるのか?
それは神のみぞ知る、いや、神さえも知らないことです。
それは私たち一人一人の意識に関わっています。
私たち一人一人が人生という織物を織っている織り人です。
一瞬一瞬に、それぞれの人生、意識、気づき、体験が織りなす模様と、それらが混ざり合ってできあがるこの宇宙全体の織り物。
美しい模様の織物になってほしいですね。
「いのちおり」には、そんな意味合いがこもっています。