ネームリーディングは名前から情報を読み取ります。ご本人の許可を得て掲載しています。
全体的に安定した人生です。
無駄なものがあまりなく、自分の欲しいものがわかっています。自分に必要なもの、重要なものをまわりに置き、そうでないことには興味を持ちません。自分の欲しいものがわかっていて、それ以外を省くから無駄がないということもできます。
自分の意志や望みをしっかりと持っています。
それに向かって”進む”というよりはそれを”整えていく”人生となりそうです。
最初から自分に必要なものはすべてそろっているので、新しくどこかにそれを探しにいく必要がありません。外にそれを求めていくというよりは、自分の中にあるそれらを見つけ出してはその存在の真価を認めていくことで、自分の世界が整っていくという感じでしょうか。「自分を掘り下げていく」という言葉が近いかもしれません。
自分の欲しいものはすでに自分の中にありますが、それはまだあらわに姿を表していません。それを探求していくので、外に世界を構築していくというよりは、自分の中に世界を構築していくことで自分自身が充実していき、それが外の世界に反映されるという流れになるようです。
構築的、構造的な思考ができますので、自分の中を探ると言っても、感情や心理面ではなく、世界観構築の部分です。世界の構造というか、自分が作り上げる世界観が大事です。それは自分がどういうものを持っているかということを探る旅でもあり、もともと持っていた素材を見つけ出すプロセスでもあります。
最初に述べたように、その素材は生まれた時にすべて兼ね備えています。バラバラになった積み木があって、うっすらとですが、それで何が組み立てられるか(完成図)を知っていますが、はっきりとはわかりません。
それを完成させるのが今世のゴールのようです。その素材となる積み木は全部持っているのですが、どう組み合わせたらいいのかがわからないし、全体図も遠い記憶の中に埋もれてしまっていてよくわかりません。それ以外のものは何もいらないので、その積み木がすべてうまく組み立てられて完成したらそれで万々歳です。
それが出来上がれば、今度はそれまでとは逆の方向(積み木ではなく、粘土で自由造形するなど)に向かうでしょうが、まずそこに辿り着きたいという思いが先です。やることは決まっているので、あとはそれをどう組み立てていくかの話となります。
その積み木構築に、ひもやボールや紙など他の素材が入るとせっかくの景観が失われ、違うものが出来上がります。それは望んではいないので、まずは積み木だけの世界を組み立てたいと思います。
積み木以外のものは必要がないので最初から省くことができます。積み木をどう組みわせていくか?だけでもけっこう大変ですが、それはそれで楽しい作業となります。
自分の中にある素材をどう使っていくか?なので、新たに別なものを取り入れる必要がありません。自分が思い描く「完成形」(ゴール)に向かって必要なものを組み立てていく作業です。
それに必要のないものは省みないだけなので閉塞的になるわけではありません。シンプルに整理されて進んでいくことになります。
しかし整理されすぎるきらいがあります。網目の大きいザルであれば、大きなものだけが残り、網目よりも小さいものはポロポロと落ちてしまいます。
自分にとってなにが大事かがわかっているので、そのザルの網目はけっこう大きいです。なので、ポロポロと不必要だと思えるものは落ちていきます。そして必要なことだけが残るのですが、時々あったがいいものも抜け落ちていっています。
整理整頓されている分、”あそび” の部分が少なくなります。積み木は円錐や円柱の形もありますが、ほとんどが積み重ねやすいように四角形です。星形なんぞがあれば組み立てづらくなります。
そんな風に四角形でキチッとハマる方が見栄えも良く、気持ちもいいです。なので、そうでないものは排除しがちです。大抵の場合はそれで問題ないのですが、時々そのために大事なものまで排除してしまっているようです。
つまり自分の予定調和外のものがはいりにくくなるということです。すべてを計画的にしているわけでは全然ないですが、無意識に自分の世界に関係あるものとないものを区別して、自分の世界のレベルや質を保っています。それが良くも悪くも作用します。
利点は、自分の世界に異物を入れることがないので、その水準を低下させません。残念な面は、異質なものやムダを取り込まないことで、可能性の”空白部分”を発動させにくくすることです。
実はこの「空白部分」は重要なパートを担っています。
ザルの網目で言えば、私たちは網目の方を気にしますが、網目によってできる”穴”、実はこれがキモです。
ザルは物を選り分ける道具です。網目の大きさにより、ザルの中に残るものと下に落ちるものが区別されます。
ザルに残るものと、残らないもの。
積み木で作ることができる形と、そうでない形。
最初は形あるものを追いかけます。
それをいかに組み合わせて意味ある物を作り出せるのか?
そこに興味がいきます。
が、それには限界があります。手持ちの積み木を積み上げて組み立てていけば、いつか積み木以外の形も使ってみたいと思うことでしょう。積み木で作る形に限界を感じるのです。そうなると、今まで見えてきたこと、あると思っていたもの以外のなにかがあるんじゃないか?と思い当たります。
それは今までは見えてなかったこと。
ザルの穴の部分です。
これはネガポジが反転するようなことですので、なかなか気づきにくいです。
しかしこれに気づき出すと、積み木を使って形を作ろうと思っていたのが、積み木を使って積み木のまわりの空間に影響を与える方法はないだろうか?と考えるようになります。
絵画でいえば、描きしるしたオブジェクトではなく、それによってできる背景の空白部分。そちらの重要性です。浮世絵や水墨画などは背景、バックグラウンドの重要性を活用しています。
主体は実体ではなく、虚のほうである。
それを実体でもってどう表現していくのか?
そんな疑問が湧いてきます。
ザルを通り抜けていくものは何か?
それは本当に不必要だから通り抜けるのか?
コップやお碗、部屋などは、その空白部分があるからこそ活用できます。
コップという実体は、中に空洞があるからこそ液体を入れることができます。
そういう構造になっています。
日本の生花や盆栽などを見るとわかりますが、実体としての植物だけに焦点が当たっているのでなく、その形によって浮き出る背景の空間の存在も考慮されています。時には、まわりの空間の存在を際立たせるために、実体である植物の形を考えます。
実体が主役かと思いきや、それは虚の部分を際立たせるための装置に過ぎない。
そんな風に取り扱うこともできます。
実と虚。
実体が主役のようで主役でなく、見えない虚の部分、それが実際の主役。
人生のどこかでそんなことに気がつくのでしょう。
それに気がつくと、実と虚の両方に意識が向くようになります。
それまでは実ばかりをみています。
いわばザルの網目です。網目によってできる穴には関心が向きません。
積み木であれば積み木を積み重ねて形を作っていくこと。
その積み木がどうその空間に存在するかまでは意識がいきません。
この物理次元で生きるということはそういうことですが、この世界はそれだけでないと気づく人もいます。つまり物理以外のものもある。いわゆる見えない世界です。
見えない世界といってもスピリチュアル的な話ではなく、意識が作り出す世界、情報の世界のことです。
形ある物を用いて、形ないものをどう表現していくのか?
その探究が進んでいくと、形あるものとないもの、実と虚が相反する物ではなく、同列、イコールになります。
形あるものと形のないもの(空間や情報)がいかに存在するのか。
それが気持ちよく整って配列できると、あなたが望んできた世界が現れてきます。
実から虚への反転に気づくことは盲点に気づくことになるので難しいポイントです。
「自分が、自分が」と思っているところが薄まると、その周辺の空間が浮き出てくる。
そんな風に言うこともできます。
意識の話にもっていくと、自我でもって物事を見ていると自分の顕在意識の及ぶ範囲外が見えなくなります。そのなかでの最高を求めることができます。それはそれですばらしいところに向かうことができます。
しかし自我が、自分ですべてどうにかしようという思いや野心を手放すと、今まで自分が持っていると思ってたものは手放され、今まで目を向けなかったところのものが目に入るようになります。
自力でなく他力というか、自分の力でない他の力、空白の部分の力が動き出します。
要するに無意識のことです。
この無意識はすべてを把握していますが、顕在意識が活発な時には動き出しません。「自分の体の動きは自分でしっかりコントロールしないといけない」と思って動きがぎこちなくなってしまうようなものです。
意識が邪魔せず自然に任せて動けば最高のパファーマンスが出るのに、「ちゃんとしなきゃ」と余計なコントロールを加えて自然な動きを阻害してしまいます。
自分の才能や可能性を自分でフタしてしまいます。それをやめて自分に対して降参したとき、自力で頑張る力が弱まります。そうなると、バックグラウンドにある無意識の力が動き出し、奇跡を起こしてくれます。それがネガポジの循環であり、空白(あそび)の活用にもなります。
実の世界を探求し、虚の世界を垣間見て、また実の世界へ戻る。
その循環がスムーズに行われる時、自分が本当に成し遂げたいと思っていたことの鱗片が見えてきます。そこに本当のゴールがあります。
実と虚の統合。
それがなされることで人として完全体により近くなります。
その時には、実がだんだんと薄まり、自我意識が薄れていき、自分の願望や欲求をどうしたいというよりは、自分にやってくる宇宙の意志を自分が実現していく感覚になります。いわば「何者かにやらされている感じがする」というやつです。
そうなると自分はそんなに気負わなくていいし、どうなっていくか?等の心配もしなくなります。「ああ、これでいいんだ、なるようになっている」そんな気楽感と同時に、知りたいこと、やりたいことも増えていきます。
無限にある空白部分とどう関わっていくのか?
宇宙の中にポツンと佇む自分を発見し、その見えない網の目が自分を構成していることに気づき、またそれが積み木のように組み替え可能であり、自分がそれをどう構成していくかが世界創造そのものに関わっていることに気づく時、また新しい世界が見えてくることでしょう。
抽象的な話になりましたが、現世ではそんなプロセスを踏みつつも淡々と過ごしていきそうです。
自分にとってムダなことは基本しない人なので、合理的になりがちなところがあります(自分ではそうは思わないかもしれませんが)。自分の美学にとってはその合理性は必要不可欠です。
自分の理念や美学を大切にしますが、同時に物足りなさも感じます。見えてないこと、気づいていないことがあることに意識は気づいているんですね。だから心のどこかに「これでいいのだろうか?何か大事なことを忘れてるんじゃ?」という空虚感を時々感じます。
時には羽目を外すことで、その行間にある「秘密」を垣間見ることができます。
自分の信念を大切にしながらもあまり固執せず、もっとすごいものがあると心に留めておくとその扉は開きやすくなります。
物事とそれが起こっている背景、自分の世界と自分と関わりのない世界の両方に、時には目を向けることで、自分が辿り着きたい領域にまた一歩近づけるでしょう。
「私が自分の世界を表現する」のではなく、「世界(宇宙)が私を通して表現される」になるほうが面白くなります。